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古本屋をめぐる論争が言われ出した当時は、正直「どちらでもいいのでは」と思って眺めていた。
本が読まれないよりは、古本でも誰かの手に渡る方がいい。
そういう考え方は今でも理解できる。
ただ、最近の“アーカイブ”と呼ばれる古着屋の流れを見ていると、同じようには捉えられない気がしてきた。
古本と同じく、二次流通では基本的に作り手へ直接的な利益は届かない。
リンク先の記事でも、中古本論争の前提には「新品が売れず、出版業界が苦しくなっている」という問題意識があったと整理されている。
服も同じで、過去の名作が再評価されること自体は悪いことではない。
むしろ、ブランドの価値やデザイナーの思想が後世に残るという意味では、間接的な利益もあるのかもしれない。
けれど、それが行き過ぎると話は変わってくる。
本物か偽物かも曖昧なものが“アーカイブ”として高値で売られ、ブランドの文脈だけが消費されていく。
その結果、今まさに服を作っているデザイナーやブランドにはお金が届かず、将来の顧客様になるはずだった人たちが、二次流通だけで満足してしまう可能性もある。
それは、ブランドのお客様を作っているようでいて、実際にはブランドの未来を少しずつ削っているのではないか。
“アーカイブ”という言葉が広く使われるようになったのは、YouTubeやInstagramなどのSNSが大きく影響しているように感じる。
時期としては、コロナ前後。家にいる時間が増え、過去の服やブランドの情報が動画や投稿で掘り起こされ、古着が単なる中古品ではなく、語れるコンテンツになっていった。
一方で、衣料品業界全体を見れば、生産量は増え続けているのに、売上は大きく伸びていない。
作りすぎ、売れ残り、廃棄。
そうした持続可能な未来への危機感から、古着や二次流通が見直された側面もある。
だから、古着そのものを否定したいわけではない。
ただ、“アーカイブ”という言葉で価値を上乗せしながら、現在進行形で服を作っているブランドには何も還元されない構造には、どうしても違和感がある。
その価値は本来、ブランドやデザイナーが積み重ねてきたもののはずなのに、いまはその果実だけが切り取られ、別の場所で完結してしまっている。
そのお店の中だけで価値が循環しているようで、
本来つながるべき作り手の側には戻っていかない。
文化には乗っているのに、産業の循環の外にいるような感覚。
その構造は、どこか歪に見える。
過去の服を語るなら、今の作り手にも目を向けるべきだと思う。
アーカイブを買うことよりも、そのブランドが今作っている一着を買うことの方が、文化を残す行為としてはずっと直接的だ。
僕自身も、Instagramなどで“アーカイブ”と呼ばれるものを目にすることは多い。
中には、昔自分が働いていたお店で扱っていた商品もある。
ただ、それに手を出すことは絶対ない。
当時のコレクションの内容も覚えているし、パリで見ていた空気感も、断片的ではあるけれど残っている。
シーズンごとに何を提案したかったのか。
なぜこの素材で、この色で、この形だったのか。
そして、どのアイテムを必ずピックすべきかという、デザイナー側の意図も含めて。
そうした文脈ごと知っていると、
いま“アーカイブ”として切り取られている一着が、
本来持っていた意味とは少し違う場所で消費されているように見えてしまう。
単体としての価値は否定しない。
けれど、それが属していた時間や流れまで含めてこそ成立していたものだと思う。
別にそれを利用する人のことをどうこう言うつもりはない。
おしゃれは自由だし、それぞれの楽しみ方があっていい。
ただ、自分たちにとっては、お店としての矜持の問題でもある。
だからこうして書いておく。アーカイブと呼ばれる商売のあり方には、距離を取り続けていくと思う。。
